2007-04-04

ちまきのパソコン遍歴

パソコン前夜

 ちまきがパソコンを知るよりも前に、家にはなぜかタイプライターが転がっていました。英語好きな妹が勉強のためにと買ってもらったものだったのですが、そのタイプライターで色々と遊んでいるうちに、ブラインドタッチはいつの間にかできる様になっていました。もちろん独学なので、指使いは世間一般に言われているブラインドタッチとは全然違いますが、それでもその辺の人よりはるかに早く入力する事ができたりします。
 ちまきは元々、お天気おじさんか無線技術士のどちらかになりたかったらしいので、パソコンにそれほどの強い興味を持っていなかった様なのです。しかし、幸いにもパソコンのれい明期からのおつき合いのため、今ではそれなりに詳しくなってしまいました。こうして出会ったパソコン達を書き出してみると、大変恵まれていたんだなぁ、と思います。


 機種はパソコンに限定せず、大型機だろうがワープロだろうが携帯電話のメール端末だろうが、ごちゃまぜにしてみました。
 ちまきはお金持ちでなかったために、発売年と出会った年とが、どれもかなりズレていたりします。よくもこれで時代に取り残されなかったもんだと(^^;)

年代別一覧
全マシンのスペック一覧
1977年
1979年
1980年
1981年
1982年
1983年
1984年
1985年
1989年
1991年
1992年
1993年
1996年
1997年
1998年
2000年
2001年

1977年 TK-80を知る

 その頃ちまきはBCLをやっていたので「ラジオの製作」を読んでいました。そこによくTK-80の広告や、TK-80を使った通信教育の広告が載っていたのです。電子工作を楽しんでいたのでTK-80には興味はあったものの、中学生には手の出る金額ではなく、「引き算で桁を借りるにはマイナス6補正をしなければ…」とか書かれているのを目にして「マイコンとはめんどくさい機械なのだな」と言う印象を持ったりしていました。

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1979年 PC-8001と出会う

 高校1年の事でした。友人がいきなり部室にPC-8001を持ち込んで来ました。買ってもらったものの、自宅では思い存分いじれないので持って来てしまった、と言う事らしい。おかげで、私は化学部の部長だったにもかかわらず、物理部に入り浸りとなったのでした。

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1980年 BASIC MASTER Level2を使う

 PC-8001は私物のため、それではまずかろうと言う事で、先生が物理部のために買って来たものです。PC-8001よりかはできる事が多くて人気者だったため、部外者であるちまきは好きにはいじれませんでした。

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1981年 ZX81を使う

 年度が代わって物理部のパソコンがまた1台増えました。ちまきはすかさずこの機を占拠、好きに使っていました。これは真剣に買いたかったです。たったの38,000円だったから。でもやっぱり買えなかった。

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1982年 FACOM M360を使う

 大学に入ると、授業で富士通の大型汎用機のTSS端末を使う様になりました。与えられた使用時間をすぐに使い切ってしまったために、他人のIDをハッキングしては片っ端から使っていました。

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1982年 PC-1210に触る

 関数電卓がないとレポートひとつ書けない様な大学にいたため、全員が関数電卓を買っていましたが、お金に余裕のある人は関数電卓の倍のお金を出してポケコンを買っていました。PC-1210はクラスメイトが持っていたので、ちまきも色々と触らせてもらっていました。
 このシャープの初代ポケコンは、表示部が1行(24文字)のみでCPUも4ビット。どちらかと言うとコンピュータと言うよりかは関数電卓に近い製品でした。でも、関数電卓と違ってプログラム内容を表示する機能があったため、公式をカンニングする道具として使えるために試験の持込禁止物品に指定され、結局はポケコン派も関数電卓を買うハメになっていた様ですが…
 表示が24文字のみなので、コンピュータとしてできる事が非常に限られてはいるのですが、それでもモグラたたきなどを入力しては遊んでいました。
 このPC-1210と、後に出たメモリー増強版のPC-1211は、バイト先の社長や会社の上司など、後々10年以上にも渡って使っている人に出会う事となったため、かなりの台数が売れた名機だったのではないかと思います。

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1982年 MZ-2000を使う

 この頃になると、MZ-2000、FM-7、PC-8801の御三家が出そろい、世間では88派だのFM派だのに別れて派閥争いになっていました。ちまきの周囲はPC-8801を持っている人が皆無だったために自然とFM派となりましたが、クラスメイトが持っていたのがMZ-2000だったため、もっぱらMZばかりをいじっていました。
 雑誌に載っていたMZ-2000向のプログラムは、どれも非常にマニアックな組み方をされていて、「1バイトを節約するアルゴリズムとは」「理解しやすいプログラムとは」と言う事を学んだものです。

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1983年 FP-1100を買う

 いちいち人の家に行かなければパソコン触れないのが不満となり、自分で購入する決心をしました。ぴゅう太とFM-7とFP-1100が候補に上がり、お絵描き以外もできる様にとぴゅう太が候補落ちし、FM-7よりもわずかに値段が安かったFP-1100を選びました。
 フロッピードライブが当時まだ大変高価だったため、カセットテープでがんばっていたのですが、やはりそれでは信頼性が悪く、段々使わなくなって行きました。2000年に粗大ゴミ送りになりました。

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1984年 FACOM M170を使う

 学校の大型汎用機がパワーアップしたため、与えられる使用時間が大幅アップしました。しかし、人のIDをハッキングするのはやめなかった。

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1984年 FM-7を使う

 クラスメイトが突然FM-7一式(本体、モニター、フロッピー、プリンタ)を持って来て「イベントのために3DのCGアニメを作ってくれ」と依頼されてしまいました。それで、製作期間の3ヶ月、FM-7が自宅にありました。
 3DCGのツールなど当然存在するはずもなく、プログラムは全て自作したので、当然のごとくFM-7をしゃぶり尽くす事となりました。30秒のアニメを3ヶ月カンヅメになってプログラムし、丸3日がかりで描画させ8mmフィルムで撮影して完成に。
 そのフィルムはなかなか評判だったらしく、海賊版ビデオが全国を駆け巡って行った、と聞いています。

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1984年 文豪100に触る

 おそらく文豪の初代だと思います。印刷屋へバイトに行った時に、少し触りました。印刷屋で使われていたとは言え、印字品質はそこそこでしかないので、住所録の整理や、コピー機でちょっと刷る程度の印刷物の版下を作る時に使う程度で、まだまだ印刷屋では和文タイプや写植が主力でした。

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1985年 FM77AVを買う

 小説を本にするとなると、手書きだとどうしてもペンだこや腱鞘炎に悩まされる事となります。そこでFM-7が自宅にある間、ワープロを色々と触っていました。FM-7が自宅を去った後でも、本を作るたびに後輩の下宿に行ってFM-77L4を使っていたのですが、それも不便に感じる様になったので、買って来たのがこのFM77AVでした。
 この機械が、一番長くつき会った機械となりました。
 まだ手許にあるのですが、さすがに今は使う事は全くありません。

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1989年 HC-40を使う

 仕事で使いました。小型電話交換機の制御用に持たされました。小さいくせに、液晶モニター、通信、プリンター、カセットまでもが内蔵されており、今にして思うとすごい機械でした。

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1989年 B-32(?)を使う

 型番の記憶があやふやですm(_ _)m 仕事で使いました。大型電話交換機の付属品について来たものです。交換機制御やデータバックアップ、仕様書作りなどに使いました。ワープロ専用機でもないクセに、漢字変換がサクサクできるのに感激した覚えがあります。32ビットって早いな〜とか思ってました。

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1989年 PC-E500を買う

 PC-1210と出会ってから7年後、「ポケコンも随分と進化したもんだなぁ」とか感心しながら買った覚えがあります。コミケットでのレジ&販売記録機として、出先でのワープロとして、かなり活躍しました。ただどうしても、RS-232Cでの通信で、送信はできても受信ができないと言う現象を克服する事ができず、自宅のパソコンとのデータの共有ができなかったために、次第に使われなくなって行きました。

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1991年 MWSを使う

 電話工事屋をやめて三菱系列の会社にフリープログラマーとして行く事になり、三菱機とのつき会いが始まります。このMWS(マルチワークステーション)と言うのは、PC/ATでもAXでもなかったので、多分PS/2互換機だったのではないかと思います。能力は高く、32ビットって早いなぁ〜とか思っていました。

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1991年 MAXYを使う

 MWSの補助として使っていたAXのMAXYでした。使い潰しは利くものの、ずいぶんと変な機械でした。この頃はソフト会社と言ってもギリギリで一人1台の環境だったので、MWSの台数が足りない分をMAXYで補っていたのですが、さすがに80286機でOS/2は辛かったので、MWSを確保できるかMAXYで我慢するかの争奪戦を毎朝やっていました。

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1991年 MELCOM 80に触る

 三菱の大型汎用機です。MWSやMAXYとMELCOM 80とをペアにして業務を組んでいました。ディスクサーバーとメールサーバーの役割を担っていました。前の仕事が大型電話交換機(交換機と言っても中身は大型汎用機そのもの)の仕事だったので、大型汎用機の扱いには違和感はなかったのですが、画面の見方やコマンド入力のし方を学ぶ事がなかったので、直接操作した事は全くありません。その代り、MWSやMAXY経由でずいぶんといじめ倒しました。
 コンソール操作はできなかったものの、毎朝の電源投入はちまきがやっていました。

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1991年 OASYS 30AXを使う

 プリンタと液晶モニターとキーボードと一式そろっているのに、キーボードを収納すると縦長スリムな格好となり(今で言う所のミニタワーっぽい感じ)、机の上に常置しても邪魔にならない画期的なデザインでした。そのためか、どこの官公署へ行っても、どこのオフィスに行っても、この30AXがゴロゴロしていたのを覚えています。
 かく言うちまきの行っていた会社にもこれがあり、よく使いました。スペック的に結構パワーがあって、ワープロとしては結構満足な使用感でした。
 この30AXの先代に当たる30AF2も、どこかで少し触った覚えがあります。30AXと同じ格好をしていました。今でも通用するデザインだと思うのですが、今では、こう言う格好のマシンは全く見かけなくなりましたね。

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1991年 FMR-50LTに触る

 会社で、OASYSがふさがっている時に、OASYSの代わりに使っていました。一応MS-DOS機なんだけど、ほとんどOASYS専用機と化していた様な気が…。
 ラップトップとは言え定位置から移動する事は全くなく、デスクトップ代わりに使用されていました。画面がオレンジ一色のプラズマディスプレイで、とても見やすいのはいいものの、しばらく使っていると画面が暖かくなって来たのを思い出します。

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1991年 PC-8801FHをもらう

 IT-V1200によるBBS運用に限界を感じていた時に、知人が不要になったPC-8801FHを譲ってくれると言うので引き取って、BBS運用をやらせようかともくろんだのですが…。
 望み通りには動いてくれなかったので、他用途に使おうとしたのですが、結局さほど活用はしてあげられませんでした。

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1991年 PC-9801Nを使う

 会社では人の数が機械の数より多くなってしまい、仕事にならなくなって来たので、会社の片隅でほこりをかぶって転がっているPC-9801Nを見つけて来て、分解リストア清掃し、ちまきの専用機にしてしまいました。
 液晶のバックライトが異様に暗いので、目を悪くするのではと心配しました。動作が大変とろいのはご愛嬌と言う事で、エディターでプログラムを書く分には充分でした。
 後にこの「のて君」は会社に接収され、社内BBSのホストマシンとして第三の人生を歩みました。とにかく電気をほとんど食わないのがいいとの事でした。

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1991年 OASYS Pocketを買う

 出先での小説執筆に豆ノートへの走り書きをしていたのですが(ポケコンも使っていたけど、カナタイプ状態)、どうせ帰宅してからデジタルに起こし直すなら最初から打ち込みたいと言うのが、かねてからの念願でした。そんな折りに世界初&世界最小ポケットワープロが発売されたのですから、飛びつかないわけがありません。
 この子はまさに大活躍をしてくれました。今でも時々使っています。

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 OASYS Pocketでは、丸文字をプリントアウトさせたかったので、パソコンプリンタ用のソフトを買ったのですが、これがまた見れたもんじゃない印字品質で腹が立ち、OASYS用のプリンタを買う事にしました。所が店頭で「このプリンタに、もう1万円足せば、もれなくADがついて来る」とか言われるものだから、連れて帰ってしまいました。
 これがまた非常に難癖のある機械だったのですが、それなのに苛酷なまでにこき使いました。
 全体的に安作りで、そのうちにフロッピードライブがお亡くなりになり、今は部屋の隅に転がっています。

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1992年 PC-9801NSを買う

 IT-V1200でのBBS運用のメンテナンスに、NIFTYでのパソコン通信に、FM77AVを使っていたのですが、さすがに2Dのフロッピーでは管理の限界を超えていて、何でもいいからハードディスクのある機械が欲しくなりました。そこで大須のグッドウィルで適当な中古をみつくろって買って来たのが、このPC-9801NSだったのです。
 結局この機械が、2番目に長くつき合った機械となりました。
 本体内の電源部が爆発してお亡くなりになり、今は部屋の隅に転がっています。

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1993年 X68000 EXPERT IIを使う

 その昔「リブルラブル」にハマった事があったのですが、やり込む前に近所のゲーセンから消えてしまっていました。やりたくてやりたくて仕方ないと思ってン年が経過、そんな折に電波新聞社からX68000版リブルラブルが発売されると聞いて、飛びつかないわけがありません。で、買っちゃいました、X68000持っていないのに…
 親切な知人が、使っていなかったX68000を貸してくれました。そんなわけで、我が家にX68000が半年ほどありました。
 もちろん、リブルラブルは思い存分堪能しました。しかし、なぜかハードディスクの中に入っていた麻雀牌ゲーム「青海」にはまってしまい、毎日々々青海三昧していました。
 OSはSX-Windowと言うものでした。この頃はWindowsはまだ3.1の頃。Windows3.1のダメダメぶりは身に染みており、OS/2はすばらしいものの16ビットなパソコンでは使い物にならず、所詮16ビットでGUIなんてと思っていた所、このSX-Windowは非常に使い勝手がよかったのでとても感動した覚えがあります。Microsoftよりもハドソンの方が技術力が上なのではないか、と思ったもんです。
 X68000は知人が誰かに売る事にしたため、引き上げられました。
 青海はその後、PC-9801用のものを見つけてしばらく遊んでいましたが、Windows用のものは未だにない様です。仕方がないので、今では青海のモドキの四川省で我慢しています。

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1993年 AMiTY試作機に触る

 AMiTYは三菱のタブレットPC(ペンノート)の総称で、通称「亜美ちゃん」。ちまきが出会ったのはそれの第0号機に当たると思います。試作機であるにもかかわらず、すでに「AMiTY」としっかりロゴが入っていました。
 ある日突然、それが会社にやって来ました。全く新しい概念の製品なので、試用して欲しいと。
 見た目は MAXY note 386 からキーボードを取っ払って、キーボードのあった場所に液晶を貼りつけたと言った感じ。今でこそ普通に見かけるタブレットPCですが、当時はそう言った概念すらなく、カルチャーショックを通り越してあきれるばかり。
 時代はここまで来たんだなぁ、と言った印象でした。とにかく、日本語の手書き入力ができるのが、信じられなかったです。
 2週間ほど使用しました。結構重かったのですが、そこはそれ試作機と言う事で我慢して、手書き入力の使い勝手や改良希望など、レポートにまとめて返した覚えがあります。そのレポートがしっかり市販機に生きていたので、嬉しかったですね。
 AMiTYは、現在でも現役のラインナップらしく、コンビニの在庫チェックなどに使われているのをたまに見かけます。

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1996年 RUPO 98GTを使う

 客先のワープロの勢力関係がOASYS優位からRUPO優位に変わったのを受け、仕様書作りもRUPOで行う様になりました。そこでやって来たのが、この98GTです。
 どうもモノクロ機最後のRUPOらしく、機能豊富で大変スペックの高い機械で「ワープロのくせに生意気な」と思ったもんです。OCR機能があって、試しにいろんな原稿を読ませてみたりしたものです。
 本体下部に紙を入れるカセットがあって給紙の手間がかからなかったのと、縮小印刷の機能があって試し刷りが気軽にできたのとで、重宝したのを覚えています。

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1996年 PC-9801RXをもらう

 それまで市販ソフトはほとんど全く利用してなくて、専ら通信や小説執筆のみにパソコンを使っていたちまきですが、ある日突然、「宝魔ハンターライム」(サイレンス)に萌えてしまいました。「PC-9801NSではカラーで見れないではないか!」と叫んでいた所、親切な同僚が使わなくなったPC-9801RXを譲ってくれました。
 しばらくPC-9801NSとP-9801RXの使い分けをしていたのですが、そのうちにRXの電源回路がダメになってしまってお亡くなりになり、今は部屋の隅に転がっています。

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1997年 PC-9801VMを拾う

 PC-9801RXが不調気味で困っている時、近所のゴミ捨て場に転がっているVMを発見、保護してしまいました。早速PC-9801RXのリリーフとして使う事に。
 動きがとろとろとのんびりしていますが、エディターで小説書く分には支障がありません。それなりに使ってあげていました。
 今でも元気なのですが、PC-9801NS/Aの導入と共にその役目を終える事となりました。
 一緒に拾ってあげたプリンタは、結局電源を一度も入れずに、粗大ゴミ送りになったんだっけ。

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1997年 OASYS LX-4500を買う

 OASYS 30ADのフロッピードライブが、いよいよウンともスンとも言わなくなって来ました。パソコンのプリンターを持っていないので事態は深刻で、代替機を買うべく米兵に出かけたのでありました。
 たったの86,000円(新古だから。定価は20万?)なのに、かなり優秀な機械でした。今でも現役です。まさか購入後2年半で、ワープロ自体がこの世から消えてなくなるとは、夢にも思っていませんでしたが。

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1998年 PC-9801NS/Aを買う

 ある日突然、PC-9801NSが火を吹いてお亡くなりになってしまいました。
 生きている機械がVMだけになってしまいました。さすがにこれではにっちもさっちも行かないので、急きょ代替機を買いに米兵に行きました。すでにWindows一色の時代で、MS-DOSなパソコンが最期のあがきとばかりにバンバン叩かれていてチャンスです。…と言うか、緊急だったためにお金がなかっただけですが…。
 PC-9801NS/Aは短期間ですが、けなげに働いてくれました。Windows機入手と共に、役目を終えました。

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1998年 PC-9821V200をもらう

 ある日突然、友人がパソコン一式を持って来たのです。「これ、あげるから」って、見ると去年出たばかりのWindows機ではないですか。ちまきがパソコン博士なのに貧乏なあまり、時代に合った機械が買えないのを見るに見かねた、とでも言うのでしょうか?
 いやいやこれは多分、大枚はたいて最新鋭機を買ったはいいけど、まさか購入後半年でPC-9801シリーズがなくなっちゃうとは夢にも思っていなかったのでしょう。投げ捨てたくなってしまったから押しつけちゃえってノリだった様です。特に彼は、初めて買ったパソコンがこれだったわけで、それはそれはよっぽど腹が立ったに違いありません。
 メモリーがフル装備になっていたために、現在でも何の支障もなく現役で働いてくれていて、GATEWAY Select Proを購入したにもかかわらず、今でもこちらの方がメインのマシンです。ただ最近は、さすがにハードディスクが3GBではきついかなと思う様になりましたが。
 この機械が3番目に長く使う機械となりました。

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2000年 FMV-BIBLOを使う

 新しく入った会社で、ちまきが入ると同時に購入された最新鋭のノートパソコンで、ちまきが独占して使っていました。WordやExcelなど、普通の事務処理機として使いました。
 ペンティアム3の500MHzと言うそれなりの頭脳を持っていたにもかかわらず、メモリーは64MBしかなく、おまけにプリインストールされているたくさんのソフトが後ろで勝手にうごめいているために、遅いの何のって、自宅のPC-9821V200よりも頭脳の能力が4倍あるくせに、速度は半分もない。仕事していて投げ飛ばしてしまおうかと思ってしまいました。
 いらないソフトをごっそり処分して、軽快に動く様にWindowsをチューンしてあげたかったけど、会社のパソコンだから、そうは行かない。
 おまけにWindows98SEはいとも簡単にしょっちゅう飛んで行ってしまうし、仕事していて投げ飛ばしてしまおうかと思ってしまったのですが、会社のパソコンだから、そうは行かない。
 ひたすら、我慢がまんな日々でした。

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2000年 PC-9821V13を使う

 会社で使っていたFMVはネットワークに参加していなかったので、補助としてV13を使っていました。FMVで作ったWordやExcelをV13でプリントアウトしたり、給与計算なんかもこちらでやってました。スペック的にはFMVよりもあからさまに劣るものの、使い勝手はV13の方がよかったです。絶対に飛ぶ事がなかったので、WindowsNTはよくできたOSだと思ったもんです。

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2001年 Sky e padをもらう

 J-PHONEのポイントがたまっていたので、ポイント交換する事にしました。結構、長文メールを打つ様になっていて、ケータイのテンキーでは辛くなっていたので、e padを選びました。
 ひと頃、かなり使い込みましたが、ロングメール専用機なので、お金がかかって仕方ないので、今はたま〜に使ってあげる程度になっています。

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2001年 Sky Photo Padを買う

 e padは文章を書いてやり取りするだけのメール端末です。カメラ付J-PHONEが流行し出し、ちまきも写メールをやりたくなってしまいました。そこでSky Photo Padを買ってしまいました。
 ただし、このSky Photo Pad、思いの外使い勝手が悪く、使いこなしができないままに、ほこりをかぶる運命となってしまいました。

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2001年 GATEWAY Select Proを買う

 自宅で仕事を始める事となり、パソコンもそれなりに整備する必要が出て来ました。元気に動いてくれているPC-9821V200には何の不満もないのですが、しかし所詮は最後のPC-9801シリーズであって、設計がすでに過去の遺物でしかありません。Windows2000が、対応する最後のOSになってしまったし、周辺機器も対応ソフトもどんどん少なくなって行くのは目に見えています。ずっと不満なしに使えたとしても、遠くない将来に使い様のない機械になる事がわかり切っています。
 それに、仕事で使うには、2台の機械を置いて同じ物を入れて、仕事用とリリーフ用にしなければ…。
 と言うわけで、私も牛飼いになりました。まさか購入後半年でGATEWAYがなくなっちゃうとは、夢にも思っていませんでしたが。
 ペンティアム3の800MHz程度で一番安いものを、メモリーは128MBは必須、ハードディスクは小さくてもいいから同じ物を2台、他は何もいらない、と言う条件を提示して、組んでもらったのが、この機械です。
 この機械とのつき合いがどうなって行くかは、これからのお話と言う事で…

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