2003-04-18

街道歩き用語集

 街道を歩いていると、どこにでも同じ様な物に出会ったりします。全く関係のないバラバラな土地・バラバラな時代の産物が転がっているのではなく、ひとつの民族のひとつの時代の産物の痕跡が、そこにある証拠でもあります。
 宿駅制とは、江戸幕府が整備した、日本国を治めるための物流や交通のシステムそのものです。ですから、各宿場には統一された施設があり、統一な仕組みによって運営されていたのです。

 街道歩きを通しては、路上観察と言う形でしか、これらの仕組みに触れる事ができませんが、その事を念頭に置いておくと、ただ歩くだけのウォーキングに、ひと味ふた味のスパイスが加わる事になります。
 そんな、街道歩きの予備知識みたいな事を、まとめてみました。
 もちろん、歴史を大の苦手としているちまきが、文献を調べもせずに書いたものなので、不正確かも知れませんが…

 本陣 (ほんじん)
 各宿場に必ず一軒か二軒あった。殿様や幕府役人など位の高い人を宿泊させるために作られた特別の宿屋。街道に面している部分(間口)は普通の宿屋と同じ位しかないのだが、奥の方で広くなっている。殿様が襲われたりしない様に数々の工夫がされていて、万が一襲われた時のための非常脱出口が必ずあり、本陣の裏にある寺などに抜けれる様になっている。実際にはそう言う非常事態は全くなかったらしい。村の名士が本陣役を引き受けていた所が多い。多くの宿場では、明治になって、小学校や郵便局や役場などの村の重要施設に転用されて行った。見学するなら草津本陣がよい。
 脇本陣 (わきほんじん)
 各宿場に必ず一軒か二軒あった。予備の本陣。殿様の家来が多くて本陣に泊まり切れない時や、本陣に他の殿様が泊まっている時などに使われた。
 旅籠屋 (はたごや)
 一般の人達が利用する宿屋。食事は出たが、見知らぬ他人との雑魚寝であった。
 木賃宿 (きちんやど)
 食事の出ない宿屋。薪代を払って泊めてもらう。台所を借りて、買った薪と持ち込んだ食料とで自炊するから「木賃宿」と呼ぶ。
 升形 (ますがた)
 かぎ形とも言う。各宿場に必ずある。どこの宿場でも宿場内の道は一本道ではなく、必ずいくつか曲がり角が設けられている。無意味な曲がり角で往来が不便になるだけなのだが、軍隊の行軍が駆け抜けるのを妨害すると言う重要な役割を持っている。近代の区画整備で、くっきりとした曲がり角がゆるやかなカーブに修正された所が多いが、よく見ると「おお、ここが升形だ」と言う場所がどこの宿場でも必ず残っている。山間の傾斜地にある宿場だと、階段になっている所もある。
 稲妻道 (いなずまみち)
 升形の変種。家々の軒先の位置をぐちゃぐちゃにずらす事によって、まっすぐではないでこぼこぐにゃぐにゃな道にしてしまったもの。守山宿で見る事ができる。
 問屋場 (といやば)
 荷物の引継&運び手の手配所。各宿場に必ずある。宿場の最重要施設。宿場から宿場へ、リレー式に荷物を渡す事により、日本国の物流が成り立っていて、それを実現するための宿駅制度なのであった。人の往来は、もののついでに整備されたに過ぎない。この時代の名残として、現代でも日本には問屋と言う概念が流通業界に残っているのである。
 高札場 (こうさつば)
 幕府が発した街道の決まり事を示すための掲示板。各宿場に必ずあり、高札場がある間の宿や立場もたまにあった。最初のうちは、お達しが変わったり、年月で汚れて読みにくくなったりしたら、新品の看板に架け替えていたのだが、江戸中期頃からお達しの変更も全くなくなり、架け替えも行われなくなり、看板は黒くなったままほったらかしになって行った。柏原宿の資料館に、状態の大変よい高札が展示されている。
 茶屋 (ちゃや)
 現代で言う所の喫茶店。お茶の他にデザートや軽食が取れた。宿場の中心は宿場施設や旅籠などがひしめいていたので、茶屋は宿場の外れに多かった。間の宿や立場や、その他にも人々が休憩したくなる様な場所にも茶屋があり、峠の茶屋などは旅人の生命線ともなった。体験するなら、箱根の甘酒茶屋がよい。
 松並木 (まつなみき)
 街道筋には松やケヤキなどの並木が整備されていた。街道がず〜っと木陰の下になるために、夏の炎天下でも楽に歩く事ができ、その意味では現代よりも当時の方がはるかに恵まれていた。昭和中期に国策により、全国で松に殺虫剤を盛んにまいたおかげで、逆に松食い虫が大発生、日本の大部分の松が枯れてしまった。ほとんどの松並木はその時に消失してしまい、今ではごくたまにしかお目にかかる事ができない。
 石畳 (いしだたみ)
 斜面地でよく見かけ、平地にはまずない。山道などは、雨が降るとぬかるんで泥道になってしまう。大変歩きにくく、時には長期間通行不能になったりもするので、そう言う場所は石を敷き詰めた舗装道路に整備された。必ず雨水を流すための側溝を備えている。
 一里塚 (いちりづか)
 現代で言う所のキロポスト。一里(3.93km)毎に設けられ、運賃計算の基準と言う役割を持ち、休憩ポイントとしての役割もあった。この一里の間隔は極めて正確で、当時の日本の測量技術がとても高かった事がうかがえる。道の両脇にこんもりとした小山を築き、遠くからも目立つ様にその上に榎や松などを植えた。片方が残っている場所は所々あるが、両塚とも残っている場所は少ない。街角でよく見かける「一里塚」と書かれた石柱は、昔そこに一里塚と言う史跡があった事を示すために現代になって立てられたもので、当時のものではない。
 道標 (みちしるべ)
 街道の曲がり角や分岐点などに必ず置かれていた。石に字を掘ったもの。年月が過ぎて字が読みにくくなって来たら、地元の有志が寄進していた(誉れ高い事だったらしい)。自動車に乗っていると行先看板をよく見落として道に迷うが、歩くスピードでは道標を見落とす事はまずない。だから、当時の人達は、道に迷う事もほとんどなかったのではないかと思う。明治大正に建てられた道標も多いため、昭和に入るまでは徒歩が旅の基本だった事がわかる。
 間の宿 (あいだのしゅく)
 宿場は古代から自然発生的にできたもので、実は各所にあった。それを幕府が街道を整備する時に、絞り込んで宿場を定めて宿場施設を整備した。定められた宿場以外では宿泊が禁じられたので、選にもれてしまった所は衰退する事となる。しかし、宿と宿の間が遠いとか、峠道で辛いとか言う何かワケアリな場所では、選にもれてしまった旧宿場が休憩ポイントとなり、後世まで生き残る事となった。宿場だった頃の名残か、升形がある間の宿も多い。
 立場 (たてば)
 現代で言う所のサービスエリア。間の宿ではないが、茶屋などがあり、休憩ポイントとして多くの人が休む場所として栄えた所。杖を立て掛けて休むと言う意味から、「立場」と呼ばれた。
 無賃橋 (むちんはし)
 当時の橋はほぼ例外なく木橋で、20〜30年程度しかもたなかった。架け替え費用を積み立てるために、橋を渡るのは有料だった。しかし、地元の名士や殿様が太っ腹で、資金が寄進されて架けられた橋がたまにあり、その様な橋は積み立ての必要がないので無料だった。無料である事は珍しかったので、「無賃橋」と呼ばれて親しまれた。明治に入り、鉄橋やコンクリート橋の技術が入ると、木橋は一斉に架け替えられた。現代の橋の事を老人達が「永久橋」と呼ぶのには、こう言った由来がある。
 渡し (わたし)
 橋がない川(や海)では有料で、船で渡るか、人夫にかついでもらって渡るかした。渡っている途中で恐喝に合う場合もあり、渡しを嫌う旅人もいた。橋を架けるまでもない小さな川や、橋を架けるのが不可能な場所や、架けてもすぐに流されるので橋を架けるのをあきらめてしまった場所、そして幕府によって橋を架けるのを禁じられた場所などが、渡し場となった。
 神社 (じんじゃ)
 各村に必ずひとつずつあった。いくつかの町が集まってできた宿場では、町の数だけ神社がある事になる。神社の入口には「村社○○神社」「郷社○○神社」と掘られた石柱が立っているが、これは、明治の国家神道政策により全国の神社をひとつの組織にした時につけられた、その神社の「社格」を表している。そして、どこの神社でも必ず「村社」「郷社」の文字がコンクリートで塗り込められて潰されているのは、戦後にGHQの神道指令により国家神道政策を廃止した時のものである。現在、神社はほぼ例外なく地元有志の共有財産で、出入り自由。子供の遊び場として整備されている所が多い。木陰があり、水場やトイレがある所も多いので、街道歩きの休憩ポイントとしての利用価値は非常に高い。
  (てら)
 寺も各村にひとつ以上あったと思う。寺は明治の国家神道政策により迫害を受け(拝むべきは天皇を祭る神社であって、寺なんかなくてもよい)、戦後に復権している。寺は仏教と言う名の宗教を布教するために、お坊さんが立てた個人の建物なので、出入り自由であるとは考えない方がよい。だから、いくら至る所に寺があっても、休憩ポイントとしては使えない。
 関所 (せきしょ)
 江戸を突然襲われて首都陥落なんて事にならない様に、物や人の行き来を監視するために設けられた検問所。各街道にひとつかふたつずつ設けられた。旅人は必ず、自分の素性と旅の目的を地元名士に書いてもらった紙(=パスポート)を持っていて、関所を通過する時に、そのパスポートに通行許可が下りた事を一筆書いてもらう(=ビザ)。関所をすり抜けるのは実は難しくはないのだが(闇夜に紛れて裏道から、とか)、前の関所のビザがない事が発覚すると、関所破りをしたと言う事で即刻死刑になってしまうため、関所破りは実際にはまれにしかなかった様である。見学するなら新居関がよい。
 庚申 (こうしん)
 おまじないのひとつ。病気・病魔が宿場内に入って来ない様にと言う意味で、ほとんどの宿場の入口に「庚申」と掘られた石碑が立っている。
 秋葉神社 (あきばじんじゃ)
 夜間に宿場が火事に見舞われない様にと、ほとんどの宿場内に火の神を祭る秋葉神社の常夜灯が立っている。
 常夜灯 (じょうやとう)
 現代で言う所の街路灯。夜間、旅人の目印になる様にと、川の対岸や宿場入口などに立てられ、火が灯された。明かりのほとんどなかった江戸時代では、遠くからでもよく見えたであろう。
 木戸 (きど)
 宿場の入口に設けられた門。治安維持のために、夜間は閉じられた。
 〒マーク (ていしんしょうまーく)
 街道を歩いていると、よく〒マークの入った石畳な石やコンクリート杭を見かける。電電公社マークである事もある。明治初期に、逓信省(今で言う郵政事業庁)が電信ケーブルを整備する事となった時に、当時まだ幹線道路だった街道沿いにケーブルを埋めたらしい。昭和19年に陸軍が通信ケーブルを街道沿いに整備したとも言われる。街道の地下には必ず電話線が埋まっていると考えて間違いはない様だ。これらケーブルは現在ではNTTに引き継がれ、現役の幹線ケーブルとして使われている様である。
 電信柱 (でんしんばしら)
 〒マークと同じく、電柱は街道沿いに建てられて電線が張られて行った。「どうしてこんな無意味な場所に電柱が立ってるんだ?」と思ったら、そこにかつで街道が通っていたと思って間違いない。かつての街道ルートがはっきりしない場所では、電柱や電線を目印に街道を推測するとよい。
 水準点 (すいじゅんてん)
 明治初期に、国土地理院が国土を正確に測量する基準として、全国に水準点を定めた。当時まだ幹線道路だった街道沿いに水準点を置いて行ったので、現代でも水準点は必ず街道沿いに見つける事ができる。現代の国道の方には水準点がないのがミソ。
 ポケットパーク (ぽけっとぱーく)
 街道筋で、地元自治体が街道ウォーカーの便を図るために、交差点の角地などを利用して作ったミニ公園。ベンチや水場などがある。ほとんどのポケットパークが露天なため、炎天下の中で涼みたいとか、雨宿りしたいとかの用途には全く使えない。たま〜に、東屋があるポケットパークがあり、そう言う場所だとホッとできる。