2003-07-15

中山道てくてく紀行 6日目

H14.06/02 赤坂→関ヶ原

麦秋と田植え

 この日は、同行者が高齢だったため、距離を短くしてみました。

 赤坂宿から西へは、石灰岩の鉱山を右手に街道が延びています。「昼飯町」とはどう言う由来の地名なのだろうかと懇談しながら歩いていると、次なる地名は「青墓」でした。「昔、ここに墓でもあったのだろうか」とか「でも、墓を地名にするとは大胆な」とか、話題が弾みます。
 しかも、青墓地内は風景がまるで宿場そのままなのです。これはいかにと思っていると「中山道・青墓宿」と堂々と看板が立っているではありませんか。

 [photo]
【 間の宿 青墓 】

 どうも、宿駅制の制定の際に選にもれてしまった、間の宿の様です。しかも、地形的にも距離的にも休憩ポイントと言うわけでもなく、それでいて69宿の指定からもれてしまったにもかかわらず、廃れる事なく街並みを維持できていたと言う事は、何かこの地ならではの特殊な事情でもあったのかなと思います。
「青墓宿」の看板の近くに、照手姫水汲みの井戸がありました。整備されているものの、やはり古井戸なため、転落防止にがっちり金網で固められていました。
 麦秋と田植えとが混在する田園風景を見ながら歩を進めていると、次なる地名は青野でした。青野の墓だから青墓なのか? それとも青墓の隣だから青野なのか?
 後で知った正解は、大垣一帯が青野ヶ原と呼ばれていたから、なのだそうです。大変に豊かな土地で、何を作ってもよく育つ。だから二毛作ができ、6月に入ってからの遅い田植えでも充分に米が取れるのでしょう。

 少々寂れ気味の住宅街を抜け、垂井宿へ到着しました。
 垂井宿はそれなりにしっかりした街で、他の宿場街と違って寂れた様子がありません。しかし、週末と言う事もあるのか、食事する場所が見つかりません。駅前なら何かあるかもと思って、南宮神社大鳥居で南に折れると、垂井の泉を発見しました。食事を後回しにして、とりあえず休憩します。が、この泉、大変に美味なんです。水筒に泉の水を満たして、探索を再開します。

<昼食>
 垂井の泉から駅へ向かうまでの間、ちょうど垂井町役場の裏手にあたる場所に、仕出屋がありました。南宮神社での結婚式のための仕出しをやっている店らしいのですが、もののついでに食堂としての設備もあり、食事ができました。さすが仕出屋、大変に美味。倍の値段を払っても惜しくないと思ったのですが、やっぱり平日は役場職員の胃袋なのでしょう、良心的な値段設定の様です。

 垂井宿から先は、延々と上り坂になります。ここを蒸気機関車が登れなかったと言うので、東海道線はこの区間は上り(東京方面)列車しか走らなかったのです。それではいけないので、北側へ大回りした線路が敷かれ、下り(大阪方面)列車はそちらを通っていました。そのため垂井駅は上りホームと下りホームとが3kmも離れていたと言う妙な状態がしばらく続いていたのだそうです。
 今の電車は、うなりながらもこの坂を登って行くので、北側の駅は廃止されたのですが、線路は今でも使われているみたいです。

 中山道は国道をまたぎ、工場街を通ったかと思うと、再び国道をまたぎ、国道と線路とに挟まれた細長い集落を通る様になります。その集落の外れで、街道脇の土手の木陰に、なぜかベンチが置かれていたので、そこで休憩を取りました。
 すると、街道を挟んだ正面の家から老人が出て来て、話しかけて来るではありんせんか。どうも、このベンチの持ち主らしいです。で、関ヶ原町の事について、実に色々と話してくれました。
 やれ「国道が通る時に徳川家康最初陣地がつぶされるので霞ヶ関に陳情に行ったけど、建設省は石頭で」だの「こんな雪深い所に新幹線など通して、それ見た事か」だの…話の内容からしてこのおじいさんは町役場のそれなりの地位にいた人らしいのですが、正体は最後までわからなかったです。で、その関ヶ原町を愛するおじいさんが私財を投げ打って、私たちの様な街道ウォーカーや歴史ウォーカーのために、ベンチを設置してくれていた、と言う事だったみたいで、感謝です。
 何だかんだと小一時間の休憩になってしまったので、おじいさんに別れを告げ、先へ行くと、数百mもしない所に、六部地蔵のポケットパークがあるではありませんか。まぁ、私設ベンチで休憩して正解だったのですが。

 街道はやがてカラー舗装となり、関ヶ原宿へと入ります。カラー舗装が終わると国道と合流し、ようやく坂道が終わった所で、関ヶ原駅へ到着。帰途へつきました。

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