2003-07-07

下街道入門

下街道とは?

 中山道を始めとする五街道は今で言う所の国道で、幕府に定められた宿場で荷物の取り次ぎをして、全国の物流を支えるためのものでした。
 宿場はその物流によって収入を得て生計を立てるわけなので、この五街道を利用せずに脇道を使うのは禁止されていたのです。

 江戸や信州から名古屋や伊勢へ行こうとする場合は、御嶽まで中山道で行き犬山から南下して名古屋へ至るのが本筋なのですが、大井から御嶽は「十三峠におまけが七つ」と言う位の山深い道で、しかもそのまま南西へ向かえばいいものをわざわざ西進してから南下する大回りをしなければなりません。
 そこで、みんなが通ったのが大井から中山道をそれて土岐―多治見―勝川を経て名古屋に至る道「下街道」今の国道19号だったわけです。中山道をまじめに使うと19里もある道のりが、こちらだと15里で済むわけだし、峠も2つしかなくてとても平坦な道です。しかも、中山道の様に運送費が法定で決められているわけではなく、安価に物を運ぶ事ができたと言います。

 [中山道と下街道の宿場と里程の図]

 しかし、皆が下街道を通る様になると、大井―御嶽間の宿場は干上がって来ます。そこで何度も宿場から陳情が出されて、何度も下街道の通行が禁止されたのですが、時が経つといつの間にか元に戻っている…そんな事を繰り返してばかりでした。
 荷物はそうやって何度も規制をされたのですが、人間の通行には規制がなく、江戸や信州からの伊勢詣でや、名古屋からの善光寺参りや御岳参りには、下街道は盛んに利用されていた様です。

 明治に入り宿駅制が廃止されると、それまで通行を規制されていた人達は当然のごとく下街道を使う様になり、鉄道も下街道沿いに通ります。脇街道であったため明治に入っても国道にはなれませんでしたが、県道として整備が進み、戦後になると国道19号として整備され、街道筋は瑞浪市―土岐市―多治見市―春日井市として発展しました。一方、大井―御嶽間の中山道は、明治中期までは国道だったのですが、そのうち通る人も全くなくなり、宿場も単なる小さな山村になって行きました。

下街道のルート

 下街道は、大井(恵那市)から少し西に行った場所、槇ヶ根の今宿追分から中山道と分岐し、土岐川(庄内川)沿いに山を下って名古屋に至ります。
 現在の国道19号は、善光寺街道(善光寺西街道―中山道―下街道)をほぼそのままなぞっていて、恵那から西は下街道のつけ替え道として整備されました。
 つけ替え前の国道は、ほぼそのまま下街道を利用していました。国道からお下がりになった県道が、そのまま下街道のルートに重なります。名古屋市内では国道19号そのものですが、春日井市内では県道508号勝川内津線が、岐阜県内では県道421号武並土岐多治見線が、それに当たります。ただしこの県道(旧国道)も、瑞浪市内の和合―名滝間は下街道ではなく、土岐川を2回渡らなくて済むう回ルートを通っています。もしかしたら江戸時代でもそちらのルートの方が通行が多かったのかも知れません。

 槇ヶ根峠を越えて分岐した後は、峠らしい峠は2個所しかありません。土岐川沿いの平坦な道を行くばかりで、とてもなだらかな道です。多治見市―春日井市間の内津峠は、高さがある反面、距離もあるので、勾配はそんなにひどいものではありません。一方、土岐市―多治見市間の神明峠&虎渓峠(大洞峠)は、少しきついです。現在の国道19号の神明峠&虎渓峠はかなり大規模に作り込まれた道なので、初めてここを車で通る人は、あまりの見事さにびっくりするかも知れません。
 峠がなくなだらかな道だったのですが、代わりの欠点として何度も川を渡らなければならない街道でもありました。土岐川の右岸へ左岸へ頻繁に川を越えなければならず、多少の雨ですぐに通行止めになってしまう街道だったみたいです。低湿地を避けてルートが曲がっている場所も随所にあります。

 多治見よりも西では庄内川(土岐川)と下街道とが別れます。多治見―高蔵寺間の玉野渓谷はとても険しい地形をしているので、それを避ける形で下街道は内津峠を越えていたのでしょう。川沿いには玉野街道が通っていたのですが、これが整備されたのはかなり後になります。現在は県道にお下がりになりましたが、近年まで愛岐道路と言う名の有料道路でした。
 JR中央線はこの区間は内津峠を越えずに、玉野街道沿いに敷かれました。計画では下街道沿いに敷設するはずだったのですが、「桑の葉に汽車の煙が降って養蚕業がダメージを受ける」とか「鉄道が通った場所はどこでも物流が壊滅的打撃を受けて村が衰退している」とかの理由で内津や坂下の住民が反対運動を行ったために、多治見から勝川までは玉野街道ルートに変更になったそうです。玉野渓谷では線路を敷くスペースなど全くなく、ひたすらトンネルを掘り進めるかなりの難工事だった様です。

 下街道の終点(起点)は一応、伝馬町通と本町通の交差点となっています。しかし下街道を来た人達が名古屋のどこに用事があるのかはさまざまなので、皆がそこまできっちり歩いていたわけではありません。
 江戸の当時の都市には街道が都市に進入する「口」と呼ばれる場所があり(今で言う所の「ターミナル」みたいなもん?)、名古屋にはそれが5口あったそうです。その中のうちのひとつが大曽根口で、そのために下街道の終点が大曽根であると記している資料が多いです。

五街道とは違う点

 下街道は五街道ではない所か、正式な街道ではないため、五街道ではすっかりおなじみの色々な物が全然なかったりします。

一里塚がない

 五街道では一里塚は、旅人の休憩ポイントとして、また、荷の運送料の根拠となるキロポストとして、整備されました。下街道では、旅人の便を図るための整備に幕府からお金が出る事はなかったと言う事と、運賃は自由に決められていたと言う事から、一里塚は作られませんでした。

本陣がない

 本陣も宿駅制を支えるシステムとして整備されたものなので、脇街道である下街道には存在しません。そのため、明治天皇御巡幸の時には、地元名士の私宅に天皇を招き入れる事となり、てんてこ舞になった様です。

宿場がない

 宿駅制での宿場とは、荷物の取り次ぎ場所と言う機能と、旅人の宿泊と言う機能のふたつの機能を持っていました。そして、宿駅制では、宿場以外の場所での取り次ぎや宿泊を全面禁止していたのです。一方、下街道は、法定で決められた街道ではないため、どこが宿場だと言う事も決められておらず、旅人は自由にどこにでも宿泊ができたため、特にここが宿場街だと言うのがはっきりしません。荷物も、お金のかかる取り次ぎ制を取らず、戸口から戸口へ同じ運送人が運んだため、問屋場と言う概念もありませんでした。